
ガヤガヤ、ガヤガヤ。
人がまるでゴミのようだ。何となく頭に浮かんだ言葉はこれ以上なく的を射ていた。
東京駅は複雑な地形をしていて、ある界隈では初見殺しと言われるほど。
――まあ、ある種の迷路だ。そんな駅に溢れるほどの人が密集している。人の流れが早く、思うように動けない。
「ッ、糸蓮! 大丈夫!? 無事かい!?」
大きな声だっただろう。けれどこの駅の中ではその大声さえ掻き消される。ぼくの声は幸い糸蓮に届いたらしく、ぼくは更に声を張り上げた。
「ああ、もう! この人混みは何度来てもイライラするなあ! 糸蓮! 一番出口を出たところの大きな一本杉のところで待ち合わせ! ここでの合流は諦めた方が良い!!」
遠くから、了解しました、という澄んだ声が鮮明に聞こえて一安心する。
さて、どうやってここを抜けるか。人の波に流されながら考える。ぼくに常に付きまとう悩みは大体これである。不運であるぼくは一発でここを抜けられたことなど無いに等しいのだ。
「あ――」
急にどこからか腕を引っ張られて体勢を崩す。そのまま見上げれば一人の、凛とした美少女が苦笑いをしていて。
多分同い歳くらいだろう。濃い紫色の髪色をした彼女は、一つ一つの動作がとても綺麗だ。
あ、さっきの会話聞かれていたな、と直感的に思った。おそらく一番出口と言っていたのに対して、言った本人が真逆の方向へ流されるのを見て引っ張ってくれたんだろう。
女の子に助けられるのは恥ずかしいやら情けないやら、ぼくは心の中で俯いた。
「一番出口、でしょう? そのまま流されれば正反対に着きますよ。私もそちらなんです。ご一緒にどうですか?」
ほら正解ぃーー!! ぼくの思っていたこと全部当たってたーー!! 居た堪れない!
そう、頭の中で響き渡ったぼくの声を全て押し留め、お願いしますと一言だけ告げ、苦笑いを返す。
少女の力は思いの外力強く、ぼくが見知らぬ人の鞄に引っかかって流されかけたり、とりあえず流されかけたりするのを彼女が助けてくれた。
情けないが、ぼくは呪われてるんじゃないのかってくらいこの駅と相性が悪い。いや、相性が良い場所の方が珍しいが。今は関係無い。
少女は人の合間を縫うようにして進んでいく。
出口に着くまで(ぼくが足を引っ張らなければ)数分とかからなかった。
「ありがとうございます。助かったよ」
「いえ、そんな! 困った時はお互い様ですよ」
無事に目的の場所に到着したぼくは少女に向かって頭を下げる。彼女が居なかったら確実にもっと時間がかかっていた。
頭を下げたぼくに彼女は慌てた様子で謙遜した。今ぼくの中で彼女の好感度がグングンと上昇している。多分もう出逢うことは無いだろうけれど。
「感謝しています。本当に」
「大袈裟ですよ。ほら、そちらもお連れがいらっしゃるのでしょう? 私も用事がありますので」
「あ、引き止めて申し訳ない。失礼するね」
「ええ。では、縁があったらまた逢いましょう」
そうして彼女と別れたのがつい数分前のことだ。何とか目的地の一本杉に辿り着き、随分待たせてしまっただろう糸蓮を探す。
きょろきょろと周りを見渡せば、その姿はすぐに見つかった。
「しれ――」
「お嬢さん、暇なら食事でもどうー?」
ピキリ。ぼくはその場で凍りついた。
見つけた、と意気揚々と近づこうとした途端にコレだ。
――確かに糸蓮の見た目は良い。素材というか、見た目ならそれこそ他に追随を許さないほどの極上の美少女だ。ぼくもそう思う。
ただ、それが世間一般でもそうなのだということをきちんと認識していなかった。
そう。とどのつまり、糸蓮はナンパされていたのだ。
「すみません。主人を待っておりますので」
声のトーンも、顔色も変えず。
相手の目すら一目たりとも置いていない糸蓮は、しっかりと言い放った。
男性は虚を突かれた表情をする。
うん、うん。正しい対応だよね。でもさ、その言い方はどうかと思うんですよ糸蓮さん?
知ってるよ?
その主人というのがマスターって意味の主人ってことは知ってるよ? でも、君の見た目は普通に人間だからさ? 他の人形みたいに一見して分かるような安い人形じゃあないからさ?
――ご、か、い、さ、れ、ま、す、よ!?
それでもナンパ男は強情なのか、糸蓮へのナンパを止めるという選択肢はないようだった。……ぼく以上にアホっていたんだぁ。
「あれ、人妻? あ、幼妻か! でも若いから遊びたいでしょ? どうー? 俺とこのあと食事でも。奢るよー?」
「結構です」
「つれないなー、ねえ。ホントに少しだけだって!」
「結構です」
すげえな。凄い冷静な対応だ。
糸蓮の対応も凄いけれど、ナンパ男の心の強さも同じ男として尊敬する。勿論良い意味ではない。
馬鹿なことを考えていたうちにナンパ男は段々イライラしてきたのか二人の間に不穏な雰囲気が漂い始めていた。ヤバイ。これは止めに入らなければいけないけど、どうやって?
「ホントにさあ! 少しだけだから遊ぼうぜ!」
「ですから、」
「行くよ、糸蓮!」
結局思いつく良い作戦など一つもなくて、強行突破するしかなかった。糸蓮の手を引いて、力の限り走る。元から逃げ足は早いのだ。
おい! と怒声が聞こえたような気がしたがどうでも良い。今はナンパ男から離れることに力を注ぐ。
もう大丈夫だと思った時には腰が抜けて座り込む。長い長い溜息が出た。
「駄目だよ」
ぼくが糸蓮に言えるのはこれだけだ。
「――見ておられましたか」
「ヒヤヒヤした」
「申し訳ありません」
ぼくが心配したのは糸蓮ではない。ナンパ男の方だ。
糸蓮は人形であるし、師匠の作品であるから絶対弱く作られているはずがない。
――当たり前だ、元は戦闘人形として作られているのだから。
その人形があのナンパをするような男に負ける訳ない。むしろナンパ男の方が命の危険に陥る。
さっきのは本当にヤバかったのだ。
「次は気をつけて。人間は、えーと、一般人は攻撃しないこと。約束」
「? 命令ではないのですか」
「うん? うん、そうだね。約束」
「……了解しました」
少し間が空いたけれど、一応納得してくれたみたいだった。
「そろそろ行こう。遅刻しそうだよ」
「はい。あ、こちらの方が近道です」