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Ⅰ話 新―ストレンジャー―
 

 朝起きた時の微睡みは罪深いというのがぼくの見解だ。

 ゆらゆらと、起きているのか眠っているのか分からない微妙な境目がとても心地が良くて、もっともっと深くに沈んでしまいたくなる。

 食べることと眠ることを至上とするぼくとしてはこの時ほど至福なことはない。

 貧乏学生のせいかまともに食事が出来ない時もあるから尚更この時間が大好きだった。

 又の名を昨日華子さんに有り金毟り取られた現実逃避とも言うけれど。

 そんな時間は誰かにゆさゆさと強く揺すられたせいで終わりを迎えた。

 あれ、ぼくは一人暮らしの筈だぞ?

 

 「トキヒト」

 

 鈴のような、しかし無機質で感情の篭らない声が激しい揺れと共に舞い降りた。

 それは意識を現実へと戻していき、そしてぱちりと目を覚ます。

 未だ心地良い微睡みを求める目が、虚ろながらに周りを見渡すと一人の少女に行き着いた。

 ――正確には、一人の少女が今にも振り下ろそうとかざした、小さな手に掴まれた陶器の花瓶に、だが。

 そうだ。この前華子さんに糸蓮を譲り受けたんだった。すっかり記憶から抜け落ちてた。

 あの、そのことは本当に謝りますのでなんでその手に花瓶を掴んでいるのかの説明が聞きたいかなー? マスターとっても嫌な予感がするんだけど。

 

 「あ、あのー……糸蓮さん?」

 「はい、お呼びですかトキヒト」

 「何をなさろうとしているんです?」

 

 震えた声で聞いてみる。

 主人(マスター)であるぼくが敬語になるくらいその手に持つ花瓶は何かと不穏な雰囲気を放っている。

 ちょっと止めてちょうこわい。

 当の本人はきょとんと首を傾げ、純粋無垢なその瞳をぼくに向けた。

 

 「何度も起こしましたけれど起きられないようだったので、殴れば起きるかなと、独自判断した次第です」

 「いやそれ逆に起きなくなるね!? 永遠の眠りについちゃうよね!?」

 「そうなのですか? ヒトは本当に脆い生き物なのですね。記録しておきます」

 

 そう言いながら糸蓮は、ゆっくりと陶器の花瓶を床に“振り下ろした”。

 ガッシャーンと音を立てて割れた花瓶は、ゆっくりした動作に反してどれだけの力を込めていたのか、文字通り粉々に割れる事態に陥って漸く彼女の行動を理解する。

 

 「……あ、」

 

 ――あ、あっぶねえぇぇえ!! 危なかった。今めちゃくちゃ危なかった。心の底から危なかった。

 あのまま実行されていたら、下手すれば死、だ。いや下手をしなくてもあのままじゃあ行く先は花瓶と同じ御陀仏コースまっしぐらだった。

 あ、逝く先の間違いかな!  ぼくとしたことがいっけねぇ! へへ。

 ――笑えねえよ!!! ごめん兄さんぼく貴方に逢いに行く前に天国に行くかも知れない! ぼくこの子と一緒に暮らしていく自信がもうないよ!! 怖い!! 今時の子(人形)怖い!! ところでオーベイドールの返品は可能ですか!? アッ、出来ませんよね華子さん御免なさいその手に持っている鈍器を離して下さいませんかね!!? こんな物理で殴ろうとするところが糸蓮は貴女に似たんですね!! クソが!!!

 なんかもう器物損害だとか花瓶の値段とか怒りとか通り越して恐怖しか湧かない。

 もう少しで自分の頭が粉々になるかも知れなかったと思うと震えが止まらなくてちょっと一周回って落ち着いてきたくらいだ。

 そもそも何故花瓶を振り下ろす必要があったのかが理解できない。

 生まれたばかりの世間知らずなこのオーベイドールはどうも母親に似てとんでもなく行動的なようだ。――訂正、常識知らずといったところか。

 この子はあまりにも人のことを知らなさ過ぎる。

 華子さんが言っていた事はこういうことか。

 はあ、と糸蓮に気づかれないように小さく溜息を吐く。

 この子を人間に近づける、か。これは中々骨が折れる面倒事を任されたぞ。まあ、そういうところは師匠らしいっちゃらしいけどさ。

 

 「トキヒト」

 「うん?」

 「現在の時刻は七時四分となりました。朝食の準備が整いましたよ。本日は約束事もお有りのようでしたので、お早めに」

 

 約束? 何かあっただろうか?

 朝から色々あり過ぎたせいか昨日の印象が薄れて良く思い出せない。

 確か、糸蓮を譲り受けたあとに――?

 

 『取り敢えず、正式にコイツの主人になると宣言したからには《人形遣い協団(パぺッターギルド)》に登録しておけよ』

 『登録……、それは早急に済まさなければいけないものですか?』

 『ああ。まあ、別にそれは何時だって良いんだがな。明日は丁度私の信頼するパペッターも居るんだ、ついでに会って来い。あいつはタメになるぞ』

 

 ――あったなあ、そんな事も。

 駄目だ。糸蓮に言われなかったら完全に忘れてたぞ、これ。すっぽかしていたら確実に殴られる案件だ。

どうしよう、ぼくが記憶力がないのは暗記教科苦手だからか。まだ、ぼく若いんだけど。ピチピチ(死語)の十六歳なんだけど。

 

 「――ていうか、朝食?」

 「はい。冷蔵庫に入っていた食材で作らせていただきました。まだお約束の時間まで余裕がありますし、顔を洗って朝食と致しましょう」

 ☆

 「なにこれすげえ」


 糸蓮が作ったらしい朝食を見て、その一言しか言えなかった。
 目の前に並べられてる皿の数は多くない。しかしそのどれもが今まで見た何よりも美味しそうでぼくの食欲を唆った。まさかこれ全部が冷蔵庫に入っていたあの安く譲って貰った腐りかけの食材だったとは思えない。


 「こ、こここここれ! これ全部! 糸蓮が作ったの!? 本当に!!?」
 「はい、事実です」
 「嘘だろ……!?」


 あんな豚の餌になりかけの食材でこんな高級旅館のような料理が出来るのなら、今までのぼくが過ごしてきた極貧は何だったのかなと小一時間程どっかの見知らぬ誰かに問いかけたい衝動に駆られた。
 その衝動を喉の奥にグッと押し込んでいると、余程面白い顔をしていたのだろう。糸蓮が少し困ったような表情をしているのに気が付いた。


 「ご迷惑だったでしょうか……?」


 こてん、と自分の容姿を最大限自覚しているとしか思えない仕草で首を傾げて問いかけてくる糸蓮に、ぼくの答えは勿論決まっていた。


 「そんなことないです!!!!!! めっちゃ有難うございます!!!!!」


 即答だ。ちょっと食い気味の即答だった。
 自分でも引くくらいの食い付きに糸蓮は気にしてはいなさそうだった。


 「良かったです」


 と無表情ながら安心したような糸蓮の言葉にほっとしつつ、美味しそうな料理が並べられてる円型テーブル(所謂ちゃぶ台)に座る。それを見て糸蓮も座った。


 「どうぞ、召し上がって下さい」
 「――いただきます」


 久しぶりの温かい飯に少し目頭が熱くなったとここに記しておこう。

 

 ☆

 「ところでさ、糸蓮」
 「はい」


 朝食を食べ、ごちそうさま、お粗末さまでした、そんな流れるような会話を終えてからふと気になったことを聞いてみた。


 「糸蓮もご飯を食べるんだね」
 「はい。私たちは、つまりは作製者・葉守華子が作るグレゴリオシリーズのコンセプトは“人間”ですから。人間と同じ“食べる”という行為でエネルギーを供給することが出来るのです」
 「へぇ。……流石は師匠、とでも言うべき?」


 ていうか、凄すぎではないだろうか。
 技師をやっている人間を何人か知っているが、その人たちが作る人形はどれも一般的なエネルギーの供給方法だった。
 そんな凄い人形が、今、ここにいるんだなあ。
 師匠の作った物とはいえ、何となく現実味がなかった。だって、これは本物の人間にしか見えない。


 「トキヒト、そろそろ約束のお時間です。本日の東京駅は混雑するようですし、早めに出発するに越したことはないでしょう」


 わざわざ食べ終わった食器の片付けまでやってくれた(手伝おうとしたら断られた)糸蓮は既に準備が出来ていた。どこにそんな時間があったのかと問いたくなるくらいスマートに行動している。
 糸蓮はしっかりしていた。それこそ本当に完璧なくらい。人間のようなカタチで、人間とは違う機械的な無駄を徹底的に排除した効率の良い選択ばかりする。
 少し。ほんの少しだけ息が詰まった。


 「待っててくれてありがとう。うん、さあ行こうか」
 「はい、お伴致します」


 ぼくはその感情を彼女に悟らせる訳にはいかない。

 

 

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