
時仁の頭は悪くない。
むしろ、単純な頭の回転だけで言えば、あのサラ・アイズリーさえ凌ぐだろう。
……だが、それを活かすには本人の自覚が著しく足りていない上、それをサポートすべき糸蓮には一般常識と知識が欠けている。サラはその年で比べる必要もなく優秀だが、圧倒的に実践経験が足りない。
――だからまだ華子の策略で踊らせることができる。まだ、彼らを騙せる段階にいる。その段階を抜けるのも時間の問題だ。何しろ彼らは伸び代の化け物。華子のこの真意を隠しに隠した説明に疑問を抱くのはきっと、近い未来のことだ。
それでも、それが結果的に彼らを守ることができる選択というのならば、大人である華子が背負うべきことなのだろう。
子供はまだ、大人に守られていればいい。背負うのは大人だけでいい。
……そう思うのは、ただの偽善だろうか。
「――あなたも難儀なお人ですね」
三咲奏はその場に似合わない優しい微笑みを浮かべながら、華子の前にほのかに湯気のたった紅茶を差し出した。
上品なカップの側に添えられている一口サイズの菓子は男である奏の、何故か備わった女子力の賜物だろう。
少し濃い目のアールグレイに角砂糖二つ。
頭を使う主人のために少し甘めに淹れる紅茶も、もう慣れた。料理が苦手な、主人から生み出された仕事仲間よりも長い時間側にいるのだ。華子のことは、自分のことのように分かる。
「なあに、この道を進むと決めた時から私の道は茨の道さ。覚悟は、できてた筈なんだがなあ」
「正しくは、『グレゴリオシリーズの完成』を目指したときでしょう。そして糸蓮は完成してしまった。――本当に、あの子たちに真実を話さなくても良かったんですか? 今なら、まだ――」
間に合うのでは、と言い切る前に、華子は奏にストップをかけた。
額を片手で覆い、ふるふると弱々しく頭を振るその様子は、まだ華子が躊躇していることを示す。
即断即決、勇猛果敢。誰よりも自分を信じ、自分の信念を貫いてきた華子には珍しい迷いだ。でもその根本は彼らの未来のため。辛く冷酷な決断を華子は求められていた。
言わなければ、彼らは未来で、――自分が居ないかもしれない未来で子供だけで悩まなければいけないかもしれない。けれど言ったなら言ったで優しい彼らは自分自身を守れない。彼らを守れる大人は、現在華子しかいないのだ。
だからこそ――
華子の手が硬い拳に変わった。爪が食い込むほど強く握られた技師の手は、小刻みに震えて痛々しい。
「――言えるわけが、ないだろう……!」
喉から絞り出した華子の悲痛な声に、奏は目を伏せる。
奏は彼らのことを好いてはいる。
――けれど優し気な見た目に反し、奏はそれほど優しい人間ではない。優先順位がしっかりとしていて、決して覆ることはない。
「……そう、ですね。『本当は敵の方が正しい』なんて、あなたが彼らに言えるはずがない」
でも、それでも。と先を紡ごうとした言葉を奏は呑み込んだ。
沈黙が場を支配するが、双方の心の軋む音が聞こえるようだった。
「本当に、あなたは難儀なお人です」
奏は華子のことなら自分のことのように分かる。
けれど奏の優先順位は変わらない。華子の気持ちは手に取るように分かれど、それに同意はできない。
奏が一番大切なのは『華子の幸せ』なのだから。
「私は何があろうとあなたについていきますよ」
そう言って奏は華子の側から離れていった。
華子は何も言わず俯いている。
差し出された紅茶は既に冷め切っていた。
☆
――三日後に人形遣い協団(パペッターギルド)に。
それだけ伝えられて、非日常は途端に日常に戻った。
満月が街の人工的な光に負けず劣らず爛々と輝いている。良く知る帰り道をぼんやりしながら歩いているだけで先ほどまでの非日常が遠く思えた。
日常というには、非日常の元凶である人形の同居人は相変わらず側にいて、少しばかり複雑な感情が湧き上がってくるが毎食出てくる安上がりで美味しい飯の魅力には抗えない。
三日後にはまた非日常に戻るとしても、あまり実感が湧かなかったからかもしれない。
事実、ぼくにとってはあの人形遣い協団(パペッターギルド)襲撃事件も桜庭さんの言葉も師匠の言った糸蓮の守護も、全部全部実感が湧かないのだ。
アイズリーの彼女は流石こういう事態に慣れているのか落ち着いていたけれど、やっぱりぼくには無理。
情報を咀嚼して内容は理解している。妙に頭は冷静で、彼女とは意味合いが違うが落ち着いてもいる。しかし心が、ついていかない。
ていうか、そもそも何で主人差し置いて主人が人形を守らなくちゃいけないんだ? という当然の疑問があるのだが。まあ、それは師匠の人形だから……、と自己完結。
「はあ」
「? どうしたんですか、トキヒト」
「ううん、なんでもない。今日は疲れたから軽く食べて行こうか」
「私が作りますよ?」
「いや、いいよ。君も疲れただろう、一緒に食べよう」
糸蓮は元々大きい目を更に見開いて、とても驚いているようだった。
本当に不可解なことを聞いたみたいに不思議そうに首を傾げて、小さく「なぜ?」と零す。
確かに今までのぼくなら糸蓮に一緒に食べようなんて言わなかっただろうからなあ。
しかし糸蓮のその姿が妙に人間じみていて、ぼくは思わず声に出して笑ってしまった。
糸蓮は不意の所作の端々が人間らしくて意識していないと彼女が人形だってことを忘れそうになってしまう。それではいけない、と心の弱い部分が叫んでいるのに、今の糸蓮は赤ん坊のように真っ白で何も知らないから、ついつい人間と同じように接してしまうのだ。
……これを見越して師匠がぼくに人形をよこしたのなら、やはりぼくは師匠に一生敵わないのだと思う。
まあ、簡潔に言うと非日常から日常に帰って来たとき、急に吹っ切れてしまったのだ。
「ご飯を食べて、お風呂に入って、今日はゆっくり眠ってしまおう」
一息。
「ぼくはどう頑張ってもやっぱり人形が好きではないから、いっそのこと師匠の言う通り君をできるだけ人間と同じように接しようと思うんだ。多分、ぼくは君という人形を信じ切ることはできない。――だから、君が人間になってほしい」
糸蓮は何も言わず静かにぼくの言葉を聞いていた。
糸蓮には好きではないとやんわり言ったが、ぼくはどうしても人形が嫌いで、受け入れることはできないし信じることはできない。
一度裏切られたぼくの心の傷は、そう簡単に癒えてくれないから。だからもういっそのこと糸蓮に人間になってもらえばいいと思った。
彼女自身で考えて、行動を起こして、ぼくのやることが間違いだとそう彼女が断じれば。ぼくを切り捨ててくれるようになってくれれば、ぼくはきっと糸蓮という彼女自身を信じれる。
「できるんだろう?」
――だって師匠ができると言っていたのだ。
師匠の言葉は迷いがない。師匠ができると言えばそれはきっとできることだし、できなくてもできるようにするのが師匠の力だ。できない筈がない。
師匠はもうぼくを逃がすつもりはなくて、アイズリーの彼女もぼくが糸蓮から逃げることを許さないだろう。桜庭さんもきっと同じだ。前後左右囲まれて逃げれないんだったら、もういっそ糸蓮の方が変わってしまえばいい。
傲慢かもしれない、自分勝手かもしれない、でもぼくは変われないから。
だから、不敵に笑って見せた。
できるだろう、と。君は変われるだろう、と。
「――当然です。葉守華子が作った、そしてあなたの、最高の人形なのですから。……今は無理でも、必ず」
満月を背に、糸蓮は美しく笑った。白の糸は月明かりを浴びて更に白銀に輝き舞った。
それにぼくも笑えて、静かに糸蓮に告げる。
「『約束』だ」
「はい、『約束』ですね」
それはまるで神聖な儀式のようで。
それと同時に、幼い子供同士が契を交わす、遠い未来の指切りのようでもあった。
「行こうか、糸蓮。お腹すいちゃった」
「はい、行きましょう、トキヒト」