
軍病院から無事釈放された後、待っていたのは嵐のような、今のセンチメンタルなぼくにとって一番会いたくない二人だった。状況を上手く呑み込めず、というか理解したくないがために脳が二人の愉快な会話を見事閉ざしている。
「華子さま、あいずりーさま、ご機嫌麗しゅうございます」
相も変わらずお手本のようなお辞儀をした糸蓮が、お二人はどうしてここに? と問いかけると師匠、そしてぼくを昏倒させた張本人であるアイズリーの彼女は、にんまりと狡猾な猫のように目を細めてぼくを悪魔の住処へ手招きした。
「いやだわ、Mr.鎮目。そんなの決まっているじゃない。――わかるでしょう?」
「そうだぜ、とっきー。こぉんなかわい子ちゃん二人に挟まれてこのままバイバイなんて、――言わねぇよ、な?」
ぼくは無意識に口の中に溜まった唾を呑み込んだ。ごくりと、まだ発達のしていない喉ぼとけが動き、そのせいか情けなくも震える声を抑えることはできなかった。
――まじで怖い。がちで怖い。多分地球上で他に無いんじゃないかってくらい目の前の悪魔が怖い。
彼女はそんなぼくを一瞥したあと下等生物を見るような視線をよこし、師匠はぼくを助けるそぶりすら見せないでいる。なんて薄情な師匠だ。いつか絶対奢った分の金返してもらおう、なんて九割の確率で無理であろう誓いを胸に立てて、後のぼくがその行為すらもはや勇者であると讃えたであろう、ぼそりと本音を呟いた。
「できれば、バイバイしたいんですけど……」
「あぁん? なんか言ったか?」
「いえ、何も」
師匠と彼女は息の合った動作で、くいっ、とつい昨日行ったばかりの行きつけの喫茶店を指さした。
サァ、と血の気が引くのが自分でも分かる。糸蓮が心配して手を握ってくれたことが暖かで、でもくそみたいに惨めな気分になってぼくは項垂れた。
「――よお、少年。私らとデートしようぜ♡」
師匠のその言葉はいつだって、ぼくにとって命日と錯覚する程の死刑宣告なのだ。
☆
師匠はコーヒー、彼女は紅茶、ぼくと糸蓮は……水。
今日は各々の支払いらしく、ぼくは珍しいことに余分にお金を払わなくていい。けれど先日の罰則(?)で今月の生活費は破綻しているのでどっちにしろぼくは水しか頼めないのである。彼女の視線が下等生物から虫ケラを見るようなものに変わっていっているよう………………ふぇえ。
「――では、本題に入りましょうか」
「おいおい早急だなあ。気の早い女は嫌われるぜ、サラちゃん」
「愚鈍な女は今の世の中使えませんよ、先生。それに」
ちらりと、彼女のまるで獲物を狩るような真っ直ぐで鋭い眼光がぼくの瞳を射抜いた。
「お楽しみは後でも構いませんでしょう?」
「然り。やっぱできる女は言うことが違うなあ」
「ふふ、ただの受け売りですよ」
「……あの、本題は?」
「……これだから殿方は嫌ですね」
「いんやぁ。とっきーが特にデリカシーがねぇだけだ」
二人の冷めた目が痛い。病み上がりの人間に酷い扱い過ぎない?
ぼくの豆腐メンタルが沈みかけていると、隣で糸蓮がおずっ、と手を挙げた。
「――私も、詳しく聞きたいです」
「糸蓮がそこまで言うならさっさと初めてさっさと終わらせますか!」
「ええ! 五分で終わらせましょう!」
「ひどい掌返しを見た!!!!」
これだからぼくの周りの女性は皆強か過ぎて嫌なんだ! 言葉選びが腹の探り合いみたいだし、なによりぼくの扱いが悪すぎる! 今回の事件の立役者は(たぶん)ぼくだろう!? 何でこんな立場が下なんだ。師匠はいつも通りだとして妥協するにしても、ぼく彼女に虫同等に見られるほどのことをした覚えが一切ないんだけれども! 差別だ差別!
「あー、と。簡潔に説明するとだな。――まずいことになったぞ、時仁、糸蓮。お前たちは事が落ち着くまで一端隠れてほしい」
「――!」
師匠のそれを、ぼくは妙に落ち着いた心持ちで聞いていた。
一瞬で荒れていた気持ちが萎えた。同時に冷静な自分がひょこりと顔をだして、考えなくてもいいことまで深く思考してしまう。
――彼女を喉から手が出る程欲しがる強欲な人間は、星の数ほどいるのだから。
――私だって、苦渋の判断だったさ。
もしも、あの言葉が全部つながってしまうのなら。
もしも、まずいことになったのはぼくではなくて、糸蓮の存在なのだとしたら。
「――トキヒト?」
「……先生。彼、本当に大丈夫なのですか? 私は心の底から心配ですが」
「だぁいじょぅぶ。あいつは確かにポンコツだけど、頭は悪くない」
一息。
「依頼だ、時仁。私が依頼人で、お前が人形遣い(パペッター)としての初めての仕事。期間は定めない。内容は――」
師匠の、糸蓮の親である天才技師の瞳には、奥底に僅かに緊張が走っていた。
初めて見るようなその瞳に、思わずごくり、と唾を飲み込む。
唇がやがて開き、一つ一つの言葉を紡いでいく。即ち――
――『グレゴリオシリーズ拾弐番機、糸蓮の守護』だ。