
Ⅳ話 不―リメンバー―
こつり、軽々しい革靴の音がこの喧騒のなか重く重く響いた。
糸蓮も、アイズリーの彼女も戦闘態勢に入る中、ぼくだけが呆然とその姿を見ることしか出来ない。
は、と短い息が吐き出され心臓が不自然に鼓動する。
遠いむかし、必死に閉じ込めていた記憶が、今度こそ無理矢理に開かれた。
禍々しい黒い肢体に、感情を映さない虚ろな紅い目をしたこの世の全ての“悪感情”たちを背後に引き連れて、テロリストは心底楽しげには嗤った。
「よう、この世界の汚物ども」
――おれがお前らの全てを壊してやるよ!
☆
突然人形遣い協団(パペッターギルド)に現れた頭の狂った男はそう言って、背後に引き連れた複数体の禍々しい漆黒の人形に破壊命令を下した。
漆黒の人形は協団の各所にバラけているところを見ると、おそらくこれは計画的犯行なのだろう。
人形遣い(パペッター)ならば誰でも知っているその漆黒の人形の存在に、ぼくの傍にいるアイズリーの彼女は戦慄したように「な、んで」とぽつりと小さく呟いた声が聞こえた。それもそうだろう、この人形が複数で、しかも人間に付き従うなんて聞いたこともないのだから。
漆黒の人形、なんて流石にぼくでも知っている。
人形遣いになるにあたって叩き込まれた知識が糸を辿るように今更蘇ってくるのだから、案外ぼくの頭は冷静だ。
「『背反人形(リベリオン)』……!」
人形に埋め込まれた感情が暴走を起こし、人に害をなすだけの堕ちたモノ。
原因は未だ解明されていないが、その身に余りありすぎる負の感情を身に宿したとき人形は堕ちるのだと、一度誰かに聞いた覚えがある。
――ぼくはそれを、いつどこで、誰に聞いたのだったか。
「ぼーっとしてんじゃないわよ、ポンコツ!」
はっ、と意識が浮上する。アイズリーの彼女に呼ばれて慌てて周りの状況を確認すると、男の引き起こしたテロはかなりの被害を出していた。
流石に桜四枚半の彼女とヘルムでも被害をこれ以上出さないよう守りながら背反人形と戦闘をするのは骨が折れるようで、先ほど糸蓮と戦っていたときのような精密で繊細な技術はなく力任せに押し通している。
戦えない人は先に彼女に逃がされた。
野次馬だった協団の人形遣いもリミッターの外れた人形相手じゃ自分の身を守るので精一杯で、テロリストを捕まえる余裕は全くない。
今、まともに戦える自由があるのはぼくだけ。
分かってはいるのに、ぼくの足はどうしてかじりじりと後ろに下がるしか出来なかった。
冷や汗が、恐怖が止まらない。
「大丈夫です」
ぼくよりも小さな手がぼくの背中に添えられる。
優しく、ゆっくりゆっくりと撫でられる手にぼくの呼吸が段々と整っていく。
「ごめん、ぼく、凄く情けない」
「大丈夫ですよ。トキヒトはもともと情けないではないですか。今更ちょっとやそっとじゃ変わりません」
「うッ……!」
そんな正直に言わなくても、なんて恨みがましく糸蓮を見るが糸蓮はどこ吹く風だ。
人形相手に言葉選びを求めるのもなあ、とも思うが、その人形に慰められているぼくが思ったよりも情けないので考えないように頭を二度振った。
もう、格好悪いのは御免である。
糸蓮はもう一度、大丈夫、と繰り返し、前方で暴れ回る背反人形に目を向けた。
「トキヒト。マスターが情けないのは百も承知です。でもだからこそ、やれることは多いのですよ」
――時仁が私を信じるといってくださった、先ほどのように。
作り物めいた美しすぎる儚い笑みがぼくの顔を覗いた途端、肌が粟立つようにぞくりと震えた。
湧き上がるのは、掻き消された絶望に代わって少しの希望の光。
この人形となら、糸蓮とならやれるところまでやれるかもしれないという打算も計画もない無謀な勇気だ。
何が人形だ、何が義務だ。それに擁護されてばかりのぼくの方が、何よりも愚かしい奴じゃないか。
今度は無意識のうちの逃亡ではない。
ジリ、と足に力を込めて背反人形との距離を測るように後ろに一歩下がった。
「――トキヒトッ!」
そんな、慣れない行動を取ってしまったためか、不覚にもぼくはぼくの体質を忘れきっていた。
だから後ろに下がるときに石に躓いて、思いっきり、後頭部から。
――転んだ。
「いっ、てえええええ!!」
途端に、背反人形(リベリオン)のリミッターの外れた馬鹿力から放たれた、普通の人間ならば一撃必殺の攻撃がぼくの髪の先をカスって勢いよく通り過ぎた。
幸か不幸か、後頭部に膨らむ重大な傷が出来たものの、然程深いものではない。
それよりも、それよりもだ。もしあのとき転んでなかったら、と思うと最悪な未来の一幕が容易に想像出来て、キュッとなった。どこがとは言わない。
「トキヒト、無事ですか?」
「ああ、うん……無事だよ。いつものことだから……うん。ハハッ」
「ほんと、あんたは何しに来たのよ! 動くなら動く、逃げるなら逃げなさい! 中途半端なのが一番迷惑だわ!!」
ガアン! と大きな音を立てながらヘルムの攻撃が一体の背反人形(リベリオン)に見事決まった。
少し余裕が出来たらしいが、まだまだ油断は出来ない状況なのだ。
役に立つかは別としてだが、ぼくしか動ける人間がいない。それが事実。
再びヘルムが尾を振って――ぼくの隣を掠め取った。
喉の奥から、ヒィ、という情けない声が漏れ出る。さっきと同じくらい死ぬかと思った。
後ろを振り向くと倒れている背反人形(リベリオン)。どうやら助けてくれたらしい。
「あとそこホンット邪魔!!」
――違った。
とても嫌悪感と怒りたっぷりの怒声。とても怖い。
「う、動く! 動くから! ねえ、ぼくは何をすればいい!?」
糸蓮は満足そうに笑い、彼女は呆れたように「遅いわよ」と言いながらビシリ! とテロリストの男が暴れている方角を指差した。
「狙うは主犯! 当たって砕けてきなさい!」
御免、役立たずなりに言わせてもらう。
――そんな無茶な。