top of page

 夢、だろうか。

 「……ト、……キ、ト……」


 鈴のような声がぼくの耳を優しく撫でる。
 何処かで聞いたことのある。これは二度目の感覚だ。
 こそばゆく、しかし心地いい。
 よく聞こうと耳を澄ます。


 「トキヒト」


 どうやら名前を呼んでいるようだった。
 誰の声だか分からないが、取り敢えず返事をしようと口を動かす。
 が、声が出なかった。
 びっくりして喉を触ろうとするも、そこにあるのは無。むしろ手がない状態だ。


 (今のぼくは、実態がない……のかな)


 思うことは出来た。見ることも出来る。
 ならば声の主を探そうじゃないか。少しの好奇心に突き動かされて、辺りを見渡す。
 見渡す限り真っ白な世界で、ぼくは声の主を探した。
 本能に近い感覚。きっととても近くに居るはずなんだ。


 「トキヒト」


 もう一度、名前を呼ばれる。
 同時にさらりと美しい白い糸がぼくの頬をくすぐる感触を覚えさせた。
 見つけた。きみはぼくの、ぼくの?
 ――なんだろう。
 思考を彷徨う中、彼女の声がぼくより先に発せられた。


 「どこまででも、貴方のお側に。私は貴方の――」

 


 ぱちりと目が覚めた。
 白い白い、とても真っ白な夢を見ていた、気がする。
 とても曖昧な記憶は、夢だったと確信させる。
 でも一つだけ、すごく美しかったということは分かった。
 数分後、目覚ましが鳴る。
 珍しく早く起きたのだと思った。
 昨日よりも落ち着いて、ぼくは家を出る支度をしながら、昨日聞いた人形の名を思い出す。


 「糸蓮……」


 ぽつりと、昨日華子さんが言っていたオーベイドールの名を口にしてみた。
 それは何となくとても美しく感じて。
 そうだな、そうかもしれない。
 ぼくの足は自然に、華子さんの作業場へと向かった。

 ☆

 「遅いぜ、少年」


 華子さんがぼくの顔を見た途端に、ニヒルな笑みを浮かべた。まるで、ぼくが来るのを分かっていたみたいに。
 本当に、食えないお人だよなあ……。


 「ぼくが来ないとは思わなかったんですか」
 「そりゃ有り得ないぜ、お人好しくん? その証拠にお前は今、ここにいる」


 華子さんは相変わらず笑っていた。余裕そうな表情を崩すことなく、彼女はもう一度ぼくに問いかける。


 「私の最高傑作、糸蓮のマスターになるつもりはないかい?」


 だがぼくは、その言葉を待っていた。
 師匠に言われたからじゃない。単に気が変わったからだ。
 オーベイドールは今も苦手だ。苦手だが、遠くで見ているのと近くで見ているのとは違う。
 ああ多分、決定的なのは夢だろうな。
 どこまででも真っ白な夢は、この先何があろうと自分次第だと言っているように思えた。
 子供のようだけれど、少しわくわくした。


 「糸蓮は、あの人に会わせてくれるんですか」
 「ああ、私が作ったんだ。できないことなんてないさ」
 「あの人に、手が届くんですか?」
 「もちろんだ。保証しよう」
 「……やります」


 顔を上げる。そのぼくの瞳は、決意に満ち溢れていたと思う。
 華子さんはそれに少し驚きながら、同意するように満足気に頷き、部屋の机に被せられた布を、勢いよく取った。
 ふわりとなびく布に合わせ、埃が舞う。
 現れたのは、一つの硝子の箱だった。
 全てが硝子でできたその箱の中で眠る、一体のドール。


 「!」


 まるでそれは、天使が現れたようだった。
 薄暗い室内、鼻につく鉄や油の匂い、きらきらと光る埃さえもが、彼女の美しさを引き立たせていた。
 雪のように白い肌。流れるような白い髪。瞑られた瞳。胸の上で重ねられた手。
 硝子の箱に入っている彼女は、眠り姫の様に、生きているかのように思えた。


 「どうだ?」
 「とても……とても綺麗だ」


 無意識に笑みが零れる。未知の存在に会ったような、好奇心溢れる笑みを、多分ぼくはしていた。
 ガチャリと箱の蓋を開け、そして彼女を抱き起こす。
 ぐったりと眠ったままの彼女は十分な重さがあり、本当に人のようだった。
 手の上で滑ってしまう真白の髪を何とか持ち上げ、首筋を確認する。
 そこには雪の結晶の絵と亥の字が書いてあり、扉のように開くようになっていた。
 それを開け、ゼンマイを突き刺し、ゆっくりと巻いていく。
 カチカチと巻く音だけが室内に響き渡った。
 やがてカチリ、と終わりを示す音が鳴った。
 ゼンマイを抜き、蓋を閉じる。そしてもう一度寝かせ、起きるのを待った。
 一分もしない内に、眠っていた彼女がぴくりと体を震わせた。


 『マスター認証確認、起動します』


 機械音が彼女の中から聞こえる。それと同時に、深紅の瞳がゆっくりと姿を表した。
 雪の積もる地面にぽとりと、赤い色を落としたようだった。


 「おはよう、糸蓮」


 ぼくは彼女に微笑みかける。糸蓮はむくりと起き上がり、ぼくを真っ直ぐに見た。
 目が合った瞬間、ぼくは更に引き寄せられる。
 それほど、魅力的だと言えよう。


 「貴方が、私のマスターですか?」


 幼げのある顔。小さく開かれた口から発せられたのは、鈴が鳴るような、凛とした声だった。
 そして何処かで聞いたような、懐かしいような声。
 ぼくはこくりと頷く。

 

 


 「ああ、ぼくは鎮目時仁。君のマスターだ」
 「時仁、トキヒトですね。分かりました私のマスター。命のまま、グレゴリオシリーズ拾弐番機、糸蓮。貴方に全てを捧げましょう」


 彼女はその場で正座し、まるで手本のようにお辞儀をした。
 そしてぼくに忠誠の言葉を並べる。
 無機質で、完璧で、美しく、そして儚い。
 安定していて且つ、不安定。
 彼女はそんな存在だった。
 一連の流れを見届けた華子さんが、口を開く。


 「あんがとうな時仁。そしてもう一つ頼みがあるんだが、聞いてくれるか?」
 「はぁ、何でしょう」
 「そいつに、心というものを教えてやってくれねぇか。こいつはまだ未完成。私の作品のテーマは“人間”だって知ってるだろ? こいつは私の作品の中で一番人間に近いんだ。しかし人形では人間に近くとも遠い存在。そこで、だ。心というものが有れば、少しは近くなるのではないかと考えてな」
 「でも、どうすれば?」
 「簡単だ。そいつが笑うようになればいいさ。心から。本当に」


 ちらりと糸蓮の方を見る。彼女はきょとんとした顔で首を傾げていた。


 「さあ、是非感想を聞こうじゃないか」
 「……全く、災難ですよ。昨日も今日も」
 「ははっ、そうか! いつも通りじゃねーか! だが出会いと言うものは決してマイナスじゃない。これからのお前に期待しているよ、鎮目時仁くん?」
 微笑みながらこちらを見下ろす華子さんに、ぼくはいつもの笑みを見せた。
 「はい!」

 

 

前へ  戻る

bottom of page